虎は死して皮を留め、夢は死して大喜利を残す。
#「大喜利」って変換してくれないんですね、IME2007。
繰り返されるのは、
1.それだけの数の「夢見て夢破れた」死屍累々が連なっているから
または、
2.過去へのノスタルジー
だという気がいたします。
Togetter - まとめ「なぜツイッターでは繰り返し「ツイッターは議論に向かない」と執拗に主張されるのか問題」:
私たちは、普段の生活の中で、「議論」なんてものは めったに・たまにしか していません。なので、もしも_仮_に_、そのような特殊な活動が、特定の ITサービス(たとえばツイッター)の上で「やりにくい」というような事情が あったとしても、特に困ることはなさそうに思われます。
まぁ、困りはしない。かもしれない。
だけど、ネットコミュニケーションだからこそ『議論』ができることを夢見て、そして夢破れたひとがそれだけの数居る(そして、いまも続々斃れ続けている)、ということではないのでしょうか。
ネットだからできる、つまり、リアルとネットとは別物だという考えであったのだとするならば、何も不思議なことは無かろうと思いますが。
他方、確かに昔は議論が成り立った(こともあった)のです。パソ通の昔には。
それ以上に「論理を尽くした罵倒合戦」のほうが多かったでしょうけど……(^^;;;
時代が変わり、ネットは進歩しました。
「だからこそ成り立たなくなったもの」へのノスタルジーというのも、またあると思います。
実のある──マジメな──議論ができないことを残念がっても、
過ぎし日々を懐かしんでも、
時は戻りませんし、
進歩の方向は一定ですから。
関連→『生存。社会化。娯楽。これが進歩だ。』(2009.06)
世界にフルオープン!な場で、"真顔ですべき議論"が成り立つことなど、もう無いんだ、と思っておいた方がいいかもしれません。
そういう意味では、これ以上「夢見て夢破れ斃れる」不幸を再生産しないために、むしろ執拗に「真顔案件に使おうなどと夢見るな!」とアピールし続けるべきなのかもしれません──"先達の務め"として。
Twitterでいえば。
まとめサイト『さまざまなめりっと』に、日々の「ふぁぼったーデイリーランキング」というのがありますが、毎日毎日"うまいこと言った"ランキング、になっているのがよくわかると思います。大喜利。
ああいう状態である限りTwitterは「大丈夫」であって、もし真顔案件がたびたび出てきたとすれば、それはTwitterがネットサービスとして"終わった"(力を失った)とき、なんだろうと思っています。
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