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2010.07.29

ソーシャルメディアは、もう「終わった」んですよ。

量が質に転化した「しあわせな時代」は、もうすでに、過去の話。

『生存。社会化。娯楽。これが進歩だ。』(2009.06)

いつまでも量と質の「幸せな正比例の関係」は続かない。絶対に続かない。
どこかで「増えすぎた量が質を叩き壊す」ようになってしまう。

敷居と質の高低について、そして「どこから発信すべきか」ということについて。(2007.07)


冤罪とTwitter - novtan別館:

善意と事実のみで行われたことであればなかなか問題にしづらいけど、悪意と嘘で行われたらものすごい問題であるという正邪のギャップというか、正義が負担するコストというか、そういうのが大きすぎる。99%の善意を1%の嘘が台無しにする、というパターンですね。そして、正義を遂行する側は、1%の嘘は99%の正義のためなら些細なことだと感じてしまう、という点でも大変危ない。(中略)情報リテラシーの観点から言えば、このような他人を罪に陥れるような未確認情報は例え真実性があっても相手にしないのが正しいのでしょう。

もう蜜月は過ぎたのだから。
すでに書かれていることを真に受けるべきではなくなっているし、
ということはもう、"真顔で書き込む"ことに意味は無くなっている
あきらめきれないひとたちには申し訳ないけれど……

前々稿でも触れましたけれど、もはやTwitterは「大喜利会場または(主に政治的な)デマRT拡散装置」と化した、そのことに気付こうよ、ちゃんと直視してよ、と思うんです。

ちょっと前に話題になった、
ネットでの知り合いと初めて会うときの「使えるフレーズ&マナー」 ~「ツイ飲み」や「オフ会」で好印象を与えるには?~|石原壮一郎「大人のネットマナー教室」|ダイヤモンド・オンライン
Twitterやfacebookをビジネスにどう生かす:日経ビジネスオンライン
企業のこんな公式Twitterはいらない:久米信行「商売繁盛! ITの焦点」

などなどを見てひとしきり苦笑したあとで悲しくなるのです、
まだそんなことを考えているのですかと。

営利であれ、
政治であれ、
社会活動であれ、
とりあえずの人脈作りであれ、
もはや「デマRTと大喜利の巣窟」と化したTwitterに、今更のこのこ真顔で乗り込むなんて、「恥ずかしいこと」だと思わないといけないはずなのに。


量が質に転化した「しあわせな時代」は終わったんですよ。

Twitterに限った話じゃなくて。
ブログだって他の何だって。
「無制限にオープンな場」で、いつまでも量と質の「幸せな正比例の関係」は絶対に続かないのだから。

どういう使い方をすべきか、もはやどういう使い方しかできないのか。
自ずから分かるはずですよね。




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2010.07.09

とある戦慄

先輩が給料明細を見て「介護保険が引かれてるー!」とショックを受けているのを他人事じゃないと思ったTristarです、こんばんは。

さて、ネットにあふれるヘイトスピーチの定番に『老人批判』というのがございますが。

曰く、
ためこんだ所得をはやく回せだの
口出しせずにすっこんでろだの
老害が社会をダメにした(する)だのと。

リアル日常含めてまぁいろいろ怨嗟があったりするのでしょう、けど……

たまにそんな暴言まがいのあれこれを見ていて思うのは、ですね、
こいつらもしかして、
自分は歳とらへんと思ってんのかとか、
むしろ自分は「老」と呼ばれるまでは生きないと確信してるんとちゃうやろか、と思わせることがあったりなかったり。

そう思うとかなりうすら寒いものを感じたりするんですよね。


しょせん"便所の落書き"、考えなしにノリにあわせてみんなが叩くもん叩いてるだけ、だと信じたいのですけれども、
ネタも連呼してたらいつか自分が本気で蝕まれる・・・ことなきにしもあらずですし、
いまその姿が想像できないのは仕方ないとしても実際何十年か経って自身が「老」呼ばわりされたらもう耐えられへんのとちゃうやろか、と思ってしまうんですよね。

二十年くらい経ったら、今世紀初めの「年三万人」がのどかだった、と思えるほどの…………
考えすぎだと思いたいですが。



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