« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

2010.08.27

議論なら、Twitterより2ちゃんねるより、人の来ない場所で。

ほんとうに議論がしたいのであれば、
真顔の議論を経てマジメな結果を出したい案件ならば。

そういう意味では常々ご提案申し上げている通りゲーテッド・コミュニティが最強ですが、たとえ世間に開かれていても実際には"通りすがり"に見つかることのない、そこら凡百の掲示板でも。

議論するならTwitterより2ちゃんねるのほうが向いている - A Successful Failure
を読んで。

上記では「場のつくり」が議論の成り立ちやすさに影響する、という論理で話をされています。
読んでみれば確かになるほどなぁ、と思うところはあるのですが、それよりも私が思うのは。
人の集まりやすさが議論の邪魔をするのではないかなぁ、と。
……まぁ、いつもの繰り言ですけれども。

虎は死して皮を留め、夢は死して大喜利を残す。(2010.06)


何度か書きましたけれども、(真顔の)議論を続けよう、と思うなら、メンバーの意識レベルを一定に揃え続けていないと成り立ちません。「志を同じくする」というか。

二人や三人では発想の広がりに欠けるでしょうが、さりとて二十人三十人となれば話が発散してしまうでしょうし、なにより意識レベルを合わせることが難しいでしょう。

ましてやTwitterやら2ちゃんねるやら、文字通り『世界にフルオープン!』、やまほどアクセスされ、かつ誰でも参加可能な場で「議論」なんて成り立つはずがないでしょう。
だって圧倒的多数は、真顔の話がしたくてネットコミュニケーションに参加するわけじゃないんですよ?

議論をしたいのなら、「志を同じくする」少人数で閉じないと成り立たない、少なくともあまりにも"効率"が悪すぎる、と思うのです。

だから、「場のつくり」の問題ではなくて。
Twitterでもフォロー/フォロワーを極端に絞れば、
2ちゃんねるならいわゆる過疎板であればあるほど、
議論を続けることはそれほど難しくはなかろうと思うのです。

で、幸いにして結論らしきものが産み出されたとして、……

議論によって生み出された貴重な成果を広く共有するために

とは仰いますが、議論の当事者たちがその最中から、後に(まとめられて)共有知になるんだ!なんて、ボランティア精神あふれる──あるいは自分でまとめる場合、自意識過剰?な──方々って、そんなに居られるものなんですか?

仮にそうだとしても、「結論だけ」広く公開されれば満足でしょう、
なにも「過程を」「リアルタイムで」オープンにすることはありますまい。

だからいづれにせよ議論は目立たないところでこそこそ(^^;;;すればいい。

……というように、なんでもかんでも、名実ともに『世界にフルオープン!』なところでしなくてもいいんじゃないの?という考え方を提案してみるのでした。

そして、人の集まる場では娯楽に徹するべきだ、ということも。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.08.10

Twitterのタイムライン、全部読むことを前提にすると、叩かれるらしい。

へんなの。

@nifty クリップがあるにもかかわらず他社サービスを取り上げて話をしなければならないのはいささか気が引けるけど・・・


はてなブックマーク - Twitter(ツイッター)の「フォローのルール」の愚と品質悪化: 愛と苦悩の日記

(フォローしているユーザーの)ツイートすべてを読むことが話の前提になっている、のが、(はてなに集う)評者の皆さんにはよほど我慢ならない暴論に読めたらしくて叩かれておりますが。

失礼ながら元のエントリに対しては……Twitterに「品質」とか「使える」とか、そんな期待をするもんじゃない、という(いつもの)感想にとどまりますが。

関連:
ソーシャルメディアは、もう「終わった」んですよ。(2010.07)
続・Twitterに勝手な期待をおっ被せる罪(2010.03)


そういえばおいらが1年ちょっと前に書いたコレにも、首記のものほどじゃないけど批判されましたっけ。
フォローしたのは、他でもない「自分」でしょ?(Twitterで過ごした1年)(2009.04)

"少なくともまともには相手できない程度に大量"のツイートを流すのが「ふつう」で、
タイムラインをいっしょうけんめい追いかけるのは──それを前提に話を組み立てると叩かれる程度には──「おかしなこと」だというのは、わたしには、いまだ、ちょっと分かりかねる点ではあります。


個々のツイートに対しては「できるだけ"軽く"扱うことを旨とし、"重く"扱う他人を嗤う」ひとたちが、
Twitterというシステムそのものに対しては「やれメディアだインフラだと"重く"扱う意見を歓迎または期待し、ただの遊び場じゃないかと"軽く"扱う意見にはなかなか同意しない」っていうのは、一体どういうことなんですかねぇ???


・・・へんなの。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.08.08

知ってほしいのは、「人」よりも「アウトプット」。

言及先をざっと読んだところ「業務系」というか比較的「名前を売る」派に見えたのであえてトラックバックしませんが、少々異見など。

R-style » ブログを始める前に考えたい二つの問い:

ブログを始めようかなと考えたときに、まず次の質問を考えてみて下さい。

「自分のことを他人に知ってもらいたいのだろうか」

エーッ!
パソ通の昔からかれこれ十数年、前世紀からずっと、
『匿"顔"性』『(リアルの)属性のしがらみからの自由』こそがネットコミュニケーション最大の存在理由だと思い続けてきたわたしには、ちょっと頷くのは難しい問いですね。

「あなたは"どんな人"なんですか」というのは、あまり興味を持ちたくも持たれたくもない領域だったりします。
ブログだけならまだしもTwitter時代になって、そういうことから目を背け続けるのは非常に難しくなっていますし、他人の日常を読んでほのぼのした気分になることも無いわけではないのですが。

で、二つ目、

「自分の何を他人に知ってもらいたいのか」

確かに「自分の考えたこと」は知ってもらいたくて、読まれたくて、そして出来るなら考え直すきっかけにしてほしくて"ブログする"わけですけれども、

知ってもらいたいのは「考えた結論」というアウトプット(ただし途中の経緯は含む)であって、「○○という(結論に至った)思考回路をもつ自分」ではないのです・・・うまく表現できませんが。

わたしの好むネット論にしろ、
あるいはゲーム日記にしろ、
スポーツ観戦記にしろ、
政治評論にしろ、
それらの"まとめ"を提供するにしろ、etc,etc...

知ってほしい、読んでほしいのはその「思った・考えたこと」の部分だ、というのは同じではないかと思うのですが……

わたしだってこれだけ続けていればそりゃぁ「いつもの思考回路」を意識して書くことはありますし、幸いそれを「Tristar節」と認知してくださっている方も居られますけれども、あくまで知って(好ましくは考えて)ほしいのは「結論」の部分であって、「Tristarというキャラ」ではないんですけど、ねぇ……

そうではなくて、『「中の人」である自分』をアピールしたいものなんですか?>みなさま



| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »