これ、奥の深い、答えの出ない話かも。
まぁ、パソコン通信の昔からある話。
謙遜あるいは自虐で発言タイトルに(ゴミ)とつけるのが習い性のひと、
ゴミ「なら」書くなと怒るひと、
価値を自分勝手に決めるなと、ゴミ「と」書くのを怒るひと。
つまんないのに精力的にアウトプットする人達をどうにかしてほしい(はてな匿名ダイアリー)
直接には、
敷居がこれでもかと下がり続ける中で、質を求めるのは無理な話と気付きなさい。
一定以上の質を求めるならクローズな場にお逝きなさい。
という、いつもの感想ではあるのですが。
万人が『娯楽』と認める、その日まで。(2010.04)
……とはいうものの。
だいたい、『Garbage-in, garbage-out』って言葉、ほかでもないコンピュータ業界の"金言"じゃないのか、とも。
そして、ただジャマになるだけのゴミならまだしも、
非常に有害なゴミ、というものも現実にあるわけで。
よくTwitterで問題になる流言飛語の類とか。
で、そういうのに限って"クラスタ"を越えてものすごい伝播力を持っているのも現実で。
以前も引用しましたけれど、
冤罪とTwitter - novtan別館:
99%の善意を1%の嘘が台無しにする、というパターンですね。そして、正義を遂行する側は、1%の嘘は99%の正義のためなら些細なことだと感じてしまう、という点でも大変危ない。
たしかに有用な面は多々あって。
敷居が高いままでは新しい輝きは出てこなくて。
だけど、
敷居を下げたら、確実に(全体の)質は下がるし、ときに有害ですらあって。
そして、
敷居と質の「ちょうどいい点」なんてこと、絶対に保つことは出来なくて。
……さぁ、どうする?
嬉々としてなんでもアウトプットし続ける、ほんとうにそれでいいの?
いわゆる『トロッコ問題』程度には。
奥の深い、答えの出ない話かもしれません。
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