« 2011年1月 | トップページ | 2011年3月 »

2011.02.26

Facebookは滅びるべきである。

……は言い過ぎでも、少なくともメジャーになるべきではないし、同様のコンセプトを持つものも含めて、ネットの主流にさせてはならない、と思うのです。

facebookの古い悪習に、僕らがNo!と言う理由 - しっぽのブログ:

その昔、人々が本人のどうにもならない血や家に社会的地位や職業を縛られていて、そこから多くの人の努力でもって解放されたのと同じく、僕らは実名やそれに伴う世間のしがらみから解放されようとしている。
遅れているのは彼らだ。

同意で、そして。
日本国憲法ではないですが、その解放を「不断の努力によつて、これを保持」しなければならないのであって(当然、濫用の防止とセットでね)。

ネットコミュニケーションが他(のコミュニケーション)と大きく異なる点は何か、といえば。
<しらないだれか>と、<(リアルの)属性によるしがらみやフィルターを外して>話ができる、この点にあるはず。

そういった「ネットコミュニケーションの存在価値」といえるこの2つを真正面から全否定するFacebookのコンセプトは、許されざる大罪である、と考えます。
築き上げてきた"解放"への挑戦。
存在価値の破壊者。

数億ユーザーというのは実情からは遥か水増しされた数字だとしても、
国と事情によっては「確かな力」を持ちつつあるいま、
個別に「使わんかったらええやん」という小さな問題ではすでに無く。


名前を売ってビジネスにしよう、それもネットで、という需要があるとして、
『ことあるごとに「実名と所属を名乗れ」とわめく』自由もまた認められるべきだとしても、
望ましくは「コミュニケーション」の枠外でしておくれよ、と。
たとえば就転職やコイビト探しのマッチングサイト、のような。

あるいはそれぞれ特定業界/業態に特化した「真剣な方以外お断り」のビジネス風味SNSがやまほど存在する(ただし仮名使用の可不可は知らない)ことですし、百歩譲って「実名含むプロフィールを逐一明らかにしたうえで、リアルの知り合いとのみ関係することを基本とする」コンセプトの存在もまた認められるべきだとしても、

その思想はネットコミュニケーションの存在価値を大きく損ねるものであることを自覚して、その自覚のもと自らマイナーな存在に留まるべきであって。


ネットコミュニケーションの存在価値とは何ですか。
他のコミュニケーションと大きく異なる点は何ですか。

その価値の破壊者が巨大化してゆくことに、危機感はないのですか?


……まぁ、本気で「滅びよ!」と思っているわけでもないのですが、
ただし、それがグローバルスタンダードになるのは勘弁してほしい、というのは本気で思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.02.22

「みんなでワイワイ」やろうよ、「ネットワーク」なんだから。

しらない──正確には、いままで知らなかった──誰かと、「みんなで話をする」ことを目指そうよ、と思うのです。

ソーシャル何とかと総称するんですか、ましてや実名規準で「リアルのつながりをそのまま持ち込むことが起点」になるような方向へ進みつつあるようですが……


星型の人間関係と、網型の人間関係: 不倒城:

ついこの間までお互いフォロー関係も接点もなかった筈のフォロワーさん同士が、ふと気がつくと会話のやり取りをしている。ついこの間まで全然かけ離れた趣味同士だった筈の人が、ふと気がつくと冗談を言いあっている。
(中略)
ソーシャルメディアは割りとなんでもそうなのだろう。趣味なり、誰かが話している話題なり、なんか色んな人と仲よさそうな人を軸に、知らない人同士がなんとなく繋がる。
(中略)
ただ、これだけお手軽でこれだけ大規模な「網型人間関係形成インフラ」が、現在まさに眼前で動いていること。かつて自分は苦手だなーと思っていたことが、今Webのインフラであっさりと実現していること。

終わったものに縋っても詮無いとは知りつつも、やはりパソコン通信の昔から見れば『網型人間関係形成インフラ』としては「退化したなぁ」と思わずにはいられません。

主人と読者で|読者同士で|みんなで(2006.04)から流用するのですが、


しんざきさん言うところの『星型』とはこんな感じでしょうか、元がブログについての話なのでそこはSNSの自分のページとかTwitterの自分のTLとか置き換えていただいて。

ここまでコメントやら@が飛び交えば御の字・十分に幸せだと思うのですが、まぁそれはともかく。

で、

たとえばTwitterの自分のTLがこういう状態になってゆくのを見て衝撃的だったと。

わかるのですが、でも、どうしても。
「自分が管理者として俯瞰する図」になってしまって、どうも自分だけが別の位置にあるようで「網」に入りきれない感じが抜けない、というか……

ほんとうの(と言うのはたぶんすごく失礼なんですけど)『網型』というのは、

心理的にはもちろん表示的な面でも"対等な立場"で輪の中でワイワイやる、ということではないかなと思うのです。

それが自然に出来たパソコン通信のシステムはやはり秀逸であったなぁ、というのと、
いまのブログなりSNSなりTwitterなりでは2番目のが限界ですよねぇ、というのと。


「ネットワーク」コミュニケーションなんだから、字義通りの「網」のコミュニケーションで、しかも、しらない──正確には、いままで知らなかった──誰かとワイワイといつまでもやっていきたいんですけどねぇ……という、いろいろ現状の進む方向を見るにつけ最後はため息になってしまうのですが(苦笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.02.18

「読まれる」ためのエントリを「作る」ということ

だいたいが「書く」というのはアウトプットなんだし、「食べる」という比喩は違うよなぁ、と思って。

ブログを書く事はメシを食うようなものである | goryugo, addicted to Evernote
を読んで考えたことなど。

たまにブログ書かないくらい平気だけど、ずっと書かないと体の調子が悪くなる位言えたらカコイイ!
これが「書く」でなくて「読む」ならおもいっきりあてはまる(笑)。
それこそ食事を摂るように、ほとんど生活の必須事項になったインプットとして


逆にアウトプット=ブログを書くことを食事に例えるなら「作る」ということになるわけですが、
日常の、身内もしくは自分のための食事と同じ(ようなもの)かと言うと、そうじゃないように思うのです。

公開しているのだから。
読まれること前提で、そして、あわよくば反応も期待しているのだから。
「他人様にお見せする」程度のもの。

かといってお代をいただこうとか、その道を目指そうというのでもないから、
そこまでの品質を担保しているわけでもなくて。
まぁ……「炊き出し」という例えがいいでしょうか。

だから、(読まれたくて)ブログを書くというのは、
頼まれもしないのに炊き出しを買って出て「どうぞ食べてみて!」と声をからしているようなものなんじゃないですか。

どうにもミジメというか"痛い"行いですが……(苦笑)。

料理(エントリ)ができたとたん4桁5桁のひとがおしよせてくるところもあれば、
もうそれで満ち足りてしまったのか単にマズいのかぜんぜん来ないところもあって。

アクセスの多寡の例えとしても、ですが、
インプットは(自分にとって)大事でも、アウトプットは(自分にとっても他人にとっても)どうなんだろうね?、という例えとしても。

こんな例えを思いつきましたので。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2011.02.02

ネットは(まだ)「世間」ではない。ましてや、Twitterなど。

今週のAERAはトップ記事からTwitterネタ(続いてfacebookネタで、ソーシャルメディア特集の趣)でございました。

ございました、が……。

検索能力だけではないと思いたいのですが、当のTwitter上での反応がことのほか「薄い」。
個々人で「Twitterの風景」というのは違っていて、該記事への賛否はいろいろあるかと思うのですが、そういう問題ではなくて、反応の数自体が少ない。ほんとうに少ない。

……いつものことではあるのですが。

清々しいまでの、この断絶(2009.07)
ほかにも昨年も「現代の肖像」に某氏が出たわけですがやはり反応は乏しく。
Twitterを離れて、ブログ検索などしてみても状況は変わらず。


ネットに「住んで」いると、ついつい、その中で種々わいわいやっていること「だけ」が世間と思ってしまいがちですが、
(たとえ相手がネット論を展開していてさえも)まだまだネットには出てこない「世間」が、情報がある、ということ。

頻出語というのかバズワードというのか、ネットで、ましてやTwitterで流れる急上昇ワードを見て「世間を知った」気になっていませんか?


その、当たり前のことの再確認として。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年1月 | トップページ | 2011年3月 »