Facebookは滅びるべきである。
……は言い過ぎでも、少なくともメジャーになるべきではないし、同様のコンセプトを持つものも含めて、ネットの主流にさせてはならない、と思うのです。
facebookの古い悪習に、僕らがNo!と言う理由 - しっぽのブログ:
その昔、人々が本人のどうにもならない血や家に社会的地位や職業を縛られていて、そこから多くの人の努力でもって解放されたのと同じく、僕らは実名やそれに伴う世間のしがらみから解放されようとしている。
遅れているのは彼らだ。
同意で、そして。
日本国憲法ではないですが、その解放を「不断の努力によつて、これを保持」しなければならないのであって(当然、濫用の防止とセットでね)。
ネットコミュニケーションが他(のコミュニケーション)と大きく異なる点は何か、といえば。
<しらないだれか>と、<(リアルの)属性によるしがらみやフィルターを外して>話ができる、この点にあるはず。
そういった「ネットコミュニケーションの存在価値」といえるこの2つを真正面から全否定するFacebookのコンセプトは、許されざる大罪である、と考えます。
築き上げてきた"解放"への挑戦。
存在価値の破壊者。
数億ユーザーというのは実情からは遥か水増しされた数字だとしても、
国と事情によっては「確かな力」を持ちつつあるいま、
個別に「使わんかったらええやん」という小さな問題ではすでに無く。
名前を売ってビジネスにしよう、それもネットで、という需要があるとして、
『ことあるごとに「実名と所属を名乗れ」とわめく』自由もまた認められるべきだとしても、
望ましくは「コミュニケーション」の枠外でしておくれよ、と。
たとえば就転職やコイビト探しのマッチングサイト、のような。
あるいはそれぞれ特定業界/業態に特化した「真剣な方以外お断り」のビジネス風味SNSがやまほど存在する(ただし仮名使用の可不可は知らない)ことですし、百歩譲って「実名含むプロフィールを逐一明らかにしたうえで、リアルの知り合いとのみ関係することを基本とする」コンセプトの存在もまた認められるべきだとしても、
その思想はネットコミュニケーションの存在価値を大きく損ねるものであることを自覚して、その自覚のもと自らマイナーな存在に留まるべきであって。
ネットコミュニケーションの存在価値とは何ですか。
他のコミュニケーションと大きく異なる点は何ですか。
その価値の破壊者が巨大化してゆくことに、危機感はないのですか?
……まぁ、本気で「滅びよ!」と思っているわけでもないのですが、
ただし、それがグローバルスタンダードになるのは勘弁してほしい、というのは本気で思っています。
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