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2011.03.29

日本(のネット)のしたたかさ

……好意的に捉えれば、だけど。

ここ最近のAC(旧・公共広告機構)のいくつかのフレーズだとか、「基準値を超える~」だとかを、

光の速さで大喜利の素材にしてしまう「ついったー民」──Twitter-erではなく、あえて日本語表記としての──の、その性根を。


そのユーモア(が最優先の)精神って、2ch発祥なんですかね?
パソ通だと良くも悪くももっと真顔だった気がするのですが。


マユをひそめる向きも居ないではない……というか、わたし自身がどんな顔で受け取ればいいのか迷うこと多々なわけですけれども、

見方を変えれば、何でも光の速さで大喜利の素材にしてしまうその精神が健在である限りは、まだ「日本は大丈夫」なんだ、と言えるかもしれないな、と。

……ただ、ネット民というのは実人口比率よりもはるかに首都圏(というか、東京)の比率が高いわけで、「東京(良く言って首都圏)は大丈夫」という限定になるかもしれないけれど。

関連→from Tokyo, to Tokyo, about Tokyo(2009.02)

これが悲痛な、真剣な、あるいは政治的なツイートで埋まるようになったら、そのときこそ本当に「日本の終わり」を認識しないといけなくなっているのかも。


以前も書いたことだけど。
Twitterまとめサイト(?)さまざまなめりっとに日々上げられている「ふぁぼったーデイリーランキング」が「うまいこと言ったランキング」である限り、あり続ける限り、日本(のネット)は大丈夫なんだと……

考えていいんですよね。
みんな、ほかのやり方を知らないから・・・世界が終わるその日になっても、自分と回線が生きている限り、ネタをつぶやく以外にない・・・とかじゃないですよね?(^^;;;



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2011.03.21

平時には、毛ほども影響感じてないのにね~え?

イザっちゅうときだけ「風評がー」「悪影響がー」って、ねぇ?
矛盾してるんちゃうの、それ。


記憶の限りでは、表紙が物議を醸すのは2回目かな。
(その前回がなんだったかはややこしいのが湧くと面倒なので書かない)

このたびのAERAの表紙(と中吊り)がひどかった、とかいう話。
まぁ、環境汚染問題には妙に高感度だから……


で、ネット民の皆様が珍しく、極めて珍しく反応しておりまして。

「悪影響わかってんのか!」「廃刊しろ!」とおっしゃる。
……へぇ、いままで影響を受けたことがございまして?

「絶対に買わん!」とおっしゃる。
……へぇ、いままで買ってたみたいな。
もとから、平時から、一瞥もしたことないんじゃございませんこと?

……何言うてますのん。


別に擁護するわけじゃありませんが(ただ「阪神」のすこし後からずっと定期購読してるのは事実ですが)、昔からあの調子と言えなくもないんで、それで今まで「なにかがどうにかなった」のかと。



たしかに少し前、ネット=世間ではない、と書いた。それもAERAを引き合いにして。
ネットは(まだ)「世間」ではない。ましてや、Twitterなど。(2011.02)

とはいえ。
直接はもちろん、そのメディアを読んだひとから間接的にも、何か影響を受けたこと、あるの?
あったら、平時、普段から、もうちょっとそのメディアに言及があってもいいんじゃないの?

前稿の裏返しみたいなものですけどね、
平時にな~んの影響力も感じてない、その「力」を信じてない相手に対して、
イザというときには「ネガティブな影響を発揮する能力」が「充分に備わっていると信じてる」、ってのは、
あんまりにも矛盾が過ぎるのと違いますか?



まぁ雑誌のひとつやふたつで済めばいいんですが(暴言)、
「普段一瞥もくれてないもの」に対しても"空気"に乗って叩く、なんてこと、ずっとずっと繰り返していると、いつか自分への災いになって還ってくるかもしれませんよ・・・?


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2011.03.17

つまり、『普段から』真顔で向き合うてたらアカン、そういうこと。

普段役に立つからと頼り切ってたら、「非常時には冷静に」なんてムリやん?
余計ベッタリになるだけやし。

注意したいのは、Twitterだから、という話ではないということ(なんでも拡散しやすい(してしまいやすい)という側面はあるにせよ)。
他のソーシャル何とかならいいのか、ブログなら、SNSならいいのか、というと、そんなことはないはずで。

つまり、普段から、「個人が個人の資格で無制限に発信しているなにか」に真顔で向き合うべきではない、ということに尽きるんじゃないですか。


大災害時のTwitterは役に立たない:

情報量は多いかもしれないが、ノイズの量も半端じゃない。危機が迫るときに、本当に必要な情報を選別するコストは馬鹿にならないと思う。
(中略)
「Twitterを見ている人の数」に等しいだけのTLが存在するので、正確な情報を得る事が困難だ。一緒に行動している人がそれぞれ異なる情報を持っているのは混乱の元だ。
(中略)
遠くから見ている人にとっては、リアルタイムで流れてくる大災害の様子を知る事の出来る便利ツールかもしれないが、今まさに命に関わる危機が押し迫っている被災地の人にとって、Twitterはほとんど役に立たないものだと思う。

ですねぇ、というか、なんでそんなに役立たせようとしますかね、というのは何度も書いたけど。

代表→続・Twitterに勝手な期待をおっ被せる罪(2010.03)

ただ、冒頭書いた通りで、普段それなしでは考えられないほどに(リアルへの/からのフィードバックとして)頼っていたら、そりゃー、非常時には真っ先に飛びつくでしょう。

そして、これも繰り返しですが、Twitterだけの話じゃなくて。
いわゆるアルファブロガーといわれるひとたちの書くジャンルに多いですが、したり顔(失礼)で時事問題を"独自の視点で"分析・解説してみせる、というやつ。

普段そういうのに頼ってるから、イザという時に(そういうのはたいてい公式発表と違うこと書くから)右往左往することになる。だけじゃなくて、RTなんかで周囲も混乱に陥れたり。
そこに隠蔽だ捏造だ陰謀論だと解説が加わると、もう目も当てられない。

情報はすべて受け取った方の自己責任、という文化じゃないんだから。日本は。


コンピュータとネットワーク、そして、
その中で行われるコミュニケーションそれ自身のことについて。
これらについては「ここでしか」真顔で話ができる場がないとしても、
それ以外の、リアルの世事は。

アルファなひとのエントリもツイートも普段から読み物として「消費」するに止めておきましょうね、
ましてや非常時には官署や公共(の性格を持った)組織のドメインのみを情報源としましょうね、アルファなひとは率先して口を噤みましょうね(それができなければ公共のドメインへのリンクを提示するのみにしましょうね)、というのが、少なくとも日本の、日本文化のもとで求められる行為だと思うのです。


"個人メディア"なんかに、頼ったらあかん。
少なくとも、頼り切ったらあかん。


万人が『娯楽』と認める、その日まで。(2010.04)


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2011.03.01

ブログって、自分探しの、旅の途中。

うちら、ほんま、何してるんやろねぇ……

あほやなぁ、って、思うでしょ?(2008.10)

読んでも、読まれても、べつにどうということはないのにね。

魅力的なブログってなんだろう - かみんぐあうとっ:

何かひきつけるものがあって初めて魅力というのは生まれる。

ほんと、魅力ってなんだろう。

文体ぐちゃぐちゃでも読みたくなったりして、
流麗な文章でも再訪しなかったりして。

個性の実力、としかいいようのない何か。

でも、あれこれ考えても仕方ない部分もあって。

いくら分析したって、
文体をマネしたって、
あのブログにはなれなくて、ましてやあの人にはなれない。


ブログなんて最初から「ひとりでネットに立ち向かう」感は強かったけど、
いろいろな事情でコミュニケーション色が薄くなってしまった今ならなおさら、
見られて、だけでなく、読まれて、好ましくは反応をもらえるような、
そして無理なくそれを続けられるやり方、というのは、
自分の中から、自分で探し出すしかなくて。
(それを望むなら、だけどね)

ずっと、自分探しの、旅の途中。

で、実力をつけたその先に、何があると分かっているわけでもない(笑)。
とりあえずビジネスというか「生きる糧」からは最大限距離を置きたいし、
画面の外に出る気もない、前世紀から「匿"顔"性」と言い続けてきたし。

なにか「おおきな変化」なんて、望んではいないし。


何年も「ブログする」ということを続けていると、そんな「自分探し」がほんと自然に、習慣になっていることにふと気づいたりして。

うちら、ほんま、何してるんやろねぇ……(笑)。

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