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2011.05.25

むしろ「きりもみ落下体験」ができる、という……

それが、ネットバトルの効能……というのは適当ではないかもしれませんけれども。

議論に向かない、というのは同意で、そして。

それでもTwitterで議論したいのなら - じゃがめブログ:

議論というのは飛行機から何人かが揃ってスカイダイビングするようなもので、お互いの持ってる情報を示し合わせて「どこに着地するのが一番良いか」を見つけるのが議論の目的です。その目的を忘れて自己主張に明け暮れ感情的に言いたいことを言うだけでは、そのまま着地に失敗して全員が大怪我をしてしまいます

え、むしろそのまま「大怪我を経験する」ためなんじゃないですか、バーチャルに="比較的安全"に。

悪ふざけで書いているのではなく、わりとマジメにそう思っているわたしです。
まぁ、本来はきりもみ落下からの回復機動が成功しないと訓練としての意味はないのも確かですが(苦笑)。


生活環境によりけりだとは思いますが、
ただでさえ「事を荒立てない」ことが善とされるこの国で、ましてや小さいときから「空気を読む」ことが最重要視される昨今、
(しがらみも、たぶん後腐れも気にすることなく)『本音で言いたいこと言ってぶつかれる』というのは、なかなか得難い体験ではないかと思うんですね。

バトルはしょせんバトルであって、ウォッチャーを喜ばせるだけで自他ともに疲れ果てるだけだし、事によっては傷が残るかもしれないし、たとえTwitterといえども時間軸が違いすぎてリアルの口論で勝てるようになるかといえばそんなことはない(笑)んだけど、
(人格批判で荒れることは多々あっても)犯罪自慢で炎上するのとは違ってリアル属性発掘されて云々というのは(比較的)少ないし、
ほんとうに関係を壊しちゃいけないひととネットでおかしくなりかけたときの「引き方」を心得る、くらいの役には立つかもしれません。


「ネットコミュニケーションに対する元気さ」があるうちに、一度くらいはバトルも体験しておくといい、かもしれません。
……そのうち、そんな元気無くなっちゃうから(^^;;;。


関連→この広い訓練場で(2006.06)


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2011.05.18

やっぱり「敷居」は必要でした、というおはなし。

20年前後かけて、ずっと敷居を下げ続け、間口を広げ続けてきて。
これだけ「誰でもが」「オープンに」「フラットな」物言いができる世界になりました、
なってみれば、そこは、ろくでもない……は言い過ぎでも、決して"すばらしい世界"ではありませんでした、という。

『さるさる日記』終了と「閉じてゆくネットコミュニケーション」 - 琥珀色の戯言:

たしかに、ブログは「簡単で、つながりやすいツール」だったんですよ。
(中略)
しかしながら、その「つながりやすさ」は、諸刃の剣でもありました。
人気ブログでは、ちょっとした言葉のアヤで「炎上」してしまう事件が頻繁に起こり、その一方で、大部分の「閑古鳥ブログ」には、誰も訪れてくれないという状況は変わりませんでした。
(中略)
そして、「大手」や「有名人」は、「つながりやすくなったために、あまりにも増えすぎたコメントやトラックバック」に対応できなくなり、どんどんコメント欄は閉鎖され、トラックバックは承認制になっていったのです。
(中略)
「もっとたくさんの人とつながりたい!」とみんな思っていたのだけれど、実際にそれが可能になってみると、むしろ、「めんどくさいつながり」の割合が、あまりに高いことに気づかずにはいられなくなってしまった。

敷居が下がりきった果てにわたしたちが見たのは、そんな光景。

とはいえ。

どんなに技術的に進歩しても、「ネットコミュニケーションが、より閉鎖的になっていくという流れ」には逆らえないし、それに適応できるサービスのみが、栄えていくのでしょう。

閉じてしまったら腐ってしまうし、それ以前に維持できないんですよ。
そこに情熱を傾けられる期間なんてたかが知れてるわけで、一人抜け、二人抜けしてしまって。
だから"新陳代謝"は必要で、でもあまりに"初心者"が増えても困ってしまう。

敷居が必要だったんです……「適度に高い」敷居が。

しくみとしては誰にでも開かれているけど、よほど強い興味がないと入らない(入れない)、というのがいいのでしょうか、黄金期一歩手前のパソコン通信の頃のような。
そんな「ちょうどいい状態」が維持できた例なんて、歴史的(!)にもほとんどないのでしょうけれど。



「リアルが充実していないと、ネット上でも充実した生活が送れない」

それは違う、と思いますよ。

本当のリア充は、「リア充」なんて言葉を知りません。
ネット業界に居るなら別ですが、「アウトプットの場としてのネット」になんて、興味も関心もないですから(、たぶん)。

だから(という接続詞が正しいかどうか分かりませんが)。

あなたのような、そしてわたしのような。
こうやって絶望しながらも、未練がましくごしゃごしゃ続けている姿というのは、たぶん誰にとっても「反面教師」であるのかもしれないですけどね(苦笑)。

関連→そなたの画面に映りしは、足抜け叶わぬ我が姿(2006.05)



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