やっぱり「敷居」は必要でした、というおはなし。
20年前後かけて、ずっと敷居を下げ続け、間口を広げ続けてきて。
これだけ「誰でもが」「オープンに」「フラットな」物言いができる世界になりました、
なってみれば、そこは、ろくでもない……は言い過ぎでも、決して"すばらしい世界"ではありませんでした、という。
『さるさる日記』終了と「閉じてゆくネットコミュニケーション」 - 琥珀色の戯言:
たしかに、ブログは「簡単で、つながりやすいツール」だったんですよ。
(中略)
しかしながら、その「つながりやすさ」は、諸刃の剣でもありました。
人気ブログでは、ちょっとした言葉のアヤで「炎上」してしまう事件が頻繁に起こり、その一方で、大部分の「閑古鳥ブログ」には、誰も訪れてくれないという状況は変わりませんでした。
(中略)
そして、「大手」や「有名人」は、「つながりやすくなったために、あまりにも増えすぎたコメントやトラックバック」に対応できなくなり、どんどんコメント欄は閉鎖され、トラックバックは承認制になっていったのです。
(中略)
「もっとたくさんの人とつながりたい!」とみんな思っていたのだけれど、実際にそれが可能になってみると、むしろ、「めんどくさいつながり」の割合が、あまりに高いことに気づかずにはいられなくなってしまった。
敷居が下がりきった果てにわたしたちが見たのは、そんな光景。
とはいえ。
どんなに技術的に進歩しても、「ネットコミュニケーションが、より閉鎖的になっていくという流れ」には逆らえないし、それに適応できるサービスのみが、栄えていくのでしょう。
閉じてしまったら腐ってしまうし、それ以前に維持できないんですよ。
そこに情熱を傾けられる期間なんてたかが知れてるわけで、一人抜け、二人抜けしてしまって。
だから"新陳代謝"は必要で、でもあまりに"初心者"が増えても困ってしまう。
敷居が必要だったんです……「適度に高い」敷居が。
しくみとしては誰にでも開かれているけど、よほど強い興味がないと入らない(入れない)、というのがいいのでしょうか、黄金期一歩手前のパソコン通信の頃のような。
そんな「ちょうどいい状態」が維持できた例なんて、歴史的(!)にもほとんどないのでしょうけれど。
「リアルが充実していないと、ネット上でも充実した生活が送れない」
それは違う、と思いますよ。
本当のリア充は、「リア充」なんて言葉を知りません。
ネット業界に居るなら別ですが、「アウトプットの場としてのネット」になんて、興味も関心もないですから(、たぶん)。
だから(という接続詞が正しいかどうか分かりませんが)。
あなたのような、そしてわたしのような。
こうやって絶望しながらも、未練がましくごしゃごしゃ続けている姿というのは、たぶん誰にとっても「反面教師」であるのかもしれないですけどね(苦笑)。
関連→そなたの画面に映りしは、足抜け叶わぬ我が姿(2006.05)
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