ココログ8周年─長く続けるということは、さみしさを貯めてゆく、ということ。
ココログは8周年を迎えました。
ことしもトップにはそれらしき表示がありませんが……中の人たちはあんまり周年に興味がないのか、はたまた異動などで開始当初のスタッフはもう居られないのか。
そしてこのブログも8周年。
今年になって急減したエントリ数&アクセス数ではございますが、なんとか続いております。
……周年ごとの振り返りはなぜかいつも暗いトーンなのですが(苦笑)今年もまた例外ではなく。
そんなこんなで改めて自分のネット利用を眺めたりして思うこと。最近RSSリーダーがつまんない。ものの見事に女性ブロガーがごそっとみんな更新しなくなった。はてなブックマークや個人ニュースサイトをつらつら眺めにいっても、情報系やなんとか論とかばっかりで、なんつーか小粋な生活ブログみたいなのがホントに見られなくなったと思う。リーダーに入れなくてもあんなにいっぱいあったのに、ってのがいくつもあって。
そりゃそうでしょうよ、と思うのです。
情熱なんて、何年も続くもんじゃないです。
生活環境の変化もあれば、体調の変化もあれば、……もしかしたら生死もあれば。
ましてや、圧倒的多数にとって、
始めるにあたって『ブログをしてみたい』以上の目的なんてないでしょうから。
まぁ、でも、さみしいですよねぇ。
こちらが(いくぶんは減ったといえど)情熱を保ち続けているときに、伴走してきた(と思っていた)相手方が醒めていってしまう、というのは。
ほんとうに新規参入が減った(ように思える)いま、続けている側にとって、
長く続けるということは、さみしさを貯めてゆくということ、なんだなぁ、と思っています。
……安っぽい失恋ソングみたいですが(笑)。
それでも、なぜか、わたし(たち)は続けているのですが。
言葉にしなくては思いが伝わらず、しかもその言葉がなかなか伝わらないのであれば、言葉に言葉を重ねるしかない。
ボールをどう受け取るかは、受け取る人の自由。それでいい。それでいいと、最近思えるようになった。
となれば、受け取って欲しいボールを山ほど投げ、下手な鉄砲を撃ち続けることが私のするべきことだ、というのが、7年書いてきての私の結論である。
同意なんです。
ブログ=繰り言2.0(2006.07)
「伝わらない」ことを実感するために、ネットに挑むのもいいかも。(2010.03)
でも、伝わらないそのさみしさに、
飽きずに、折れずに、それを年の単位で続けていられる、というのも、なかなか奇特なんですよねぇ、と、周囲を見ていて思います。
ましてや、ブログなんてところで、
伝わらない言葉を繰り返してまで、わたし(たち)はいったい何を伝えたいんだろうか?と思うと、ね……。
ほかのひとはどうだか知りませんが、アクセス減の現実の中で。
(まぁ、今は『実名・真顔の議論・リアル連携』勢力とたたかっていかなきゃならん、と思ってはいますが)
それでも、なぜか、わたし(たち)は繰り返し続けているのですが。
そなたの画面に映りしは、足抜け叶わぬ我が姿(2006.05)
もとよりわたしは使ったことはありませんが、今年は人気のあったブログパーツがいくつか、サービス終了のときを迎えました。
たぶん「ココログの10年」は迎えられる気がしますが、
「いまから10年」は、たぶん"無い"と思っています。
……その時を迎えるまでは、どうかよろしくお願いします。
そして、"立ち並ぶ墓標のひとつ"の側に並んだとき、
さみしく思っていただける誰かが居てくれますように。
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