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2011.12.29

雑談が消え、コミュニケーションが消えた。

かつてのパソコン通信ではたいていどこでも、一番にぎわっていたのは「フリートーク」の会議室でした。
そのフォーラムのテーマとは関係ないことを話す場、すなわち"雑談部屋"。

今いずこ。


移りゆく「インターネットの一番の問題点」 - 琥珀色の戯言:

僕がネットをはじめた10年前くらいには、弱音を吐くと、共感してくれたり、励ましてくれたりする人が多かった。
ところが、今は、「弱音を吐いた人や、ちょっとおかしなことを言った人」は、容赦なくバッシングされる。
「共感」どころか、「隙をみせずに発言する」ことが要求される。
「隙を見つけたら、とことん引きずり下ろそうとする」人たちがたくさんいるから。
(中略)
10年前は、現実が戦場で、ネットは野戦病院だった。
でも、いまは、ネットこそがもっとも油断のならない戦場になっている。
現実も、相変わらず戦場のままなのだけれども。

この"空気"、すごくわかります。
単純に「しんどい」「疲れた」とは書けない"なにか"を感じるんですね。
「でも頑張らないと」と付け加えないと許されない、ような。

外資系コンサルや金融の特徴としてよくいわれるところの「Up or Out」を連想します。
昇進か、さもなくばクビか。

ネットが、そこで発信する個々人までもが、強烈な上昇志向に憑りつかれているように感じるんですね。

理由は存じませんが、もしこの見立てが当たっているとするなら、巷にあふれる"日本没落論"は、一笑に付していいのかもしれませんが。


それはそれとして。
そもそも、いまの大多数のひとって、ネットに"雑談"を求めているのでしょうか?
それどころか、コミュニケーションさえ。

Twitterだって、「(双方向の)つながり」を目的としているひと、けっこう希少なのではないですか?
3桁後半も4桁もフォローしていて、「やりとり」がそう簡単に成立するはずがないし、だとすると、別の目的、それこそ上昇志向にもとづく情報収集など、に使っていると見た方がいいわけで。

……理由を考えてみました:


  • かつてわたしたちは、ネットに居場所を求めに来た。

  • だから雑談が成り立ったし、コミュニケーションが主目的になりえた。

  • 時代が下り、"一般人"──若年層・そしてリア充──が大量に入ってきた。

  • かれらにとって当たり障りのない雑談は「友達と」「リアルで」(ケータイメールで)するものであって、

  • ネットはネタ集め、情報収集、そして誰憚ることなく他者を斬りつけるためのもの。

いかがでしょうか。
昔から人脈作りに躍起なひとは居ましたし、今わたしのTLにはリアルご近所さんと「改変しまくりの非公式RT」を駆使してキャッキャしているひとも居ますけれども、
全体として雑談が消え、コミュニケーションさえもが消えていった理由としてつじつまは合うように思いますが。

この先この国がどうなっても、この流れはもう止まらないのかもしれません。
庶民が個人の立場でアウトプットすることなんて、結局たいしたことなんてないのにね。
ああ。

わたしは「読む落語」のようなものをネットに求めているのかもしれない。(2008.11)


でも、「雑談をできる相手」を探すのは、ほんとうに難しいですよ。
リアル近所と違って、育ちも、常識も、まるでちがうわけですから・・・
テーマを定めずに、それでも話が合う、というのはものすごい奇跡だと。

だからこそ見つかれば"安住の地"になり、そして、
外野からは"常連のたまり場"と非難されもするわけですけれども(笑)。

私の居場所はどこですか(2007.08)

わたしはまだ、探しています。
……いや、"探して"はいないかもしれません、
ガツガツ探しに行くものじゃなく、「気がつけばそこだった」という性質のものだと思うから・・・


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2011.12.26

今年は慣例で上げる、自選エントリ2011

なんというか、ブログブームの下降線がはっきり見えだした、と言っていい昨今ですが。
だからこそまなめさんにはもう一度トラバ企画を復活していただきたく思ったりもしますが……"古参"しか集まらなかったりして(^^;。

まぁそれはともかく、何年も続けていると「しないとどうも落ち着かない」みたいな心情でお送りする、2011年自選エントリ3つでございます。


ひとつめ:

諸君 私は娯楽が大好きだ(2011.09)

改変ネタとしてはかなり頑張ったつもりの一品(笑)。
あ、ちなみに原典であるところの『ヘルシング』は1ページも見たことがありません(^^;
どころかそれが漫画であることをこの参照元をさがしている過程で知った、という……


ふたつめ:

Facebookは滅びるべきである。(2011.02)

<(リアルの)属性によるしがらみ>からの解放、などという考えも今ではそれこそ敗残兵ようなものなのかもしれませんけれども……
遠からず、
あまねく人々が、個人情報を、そしてGPS座標つきの行動履歴を、
それがどう利用され自身にどのような対価があるのかも知らされないまま、
しかし嬉々として逐一差し出さないと、一定水準以上の社会生活が送れない、
そんな未来が来るようで、、、

あ、ちなみに「バルス!」ネタを使いましたが原典であるところの『天空の城ラピュタ』は1秒たりとも見たことがありません(^^;

この2つあたりは、まぁ、"ネット民としての嗜み"的な知識として使ってみた次第。


みっつめ:

「お上」が来る、ということ(2011.04)

娯楽・大喜利と、今やデマも多いですが、それらと「公の情報」が共存できる、そんな国でも民族性でもない、ことは誰もが認めるはずです。
いわゆるアーリーアダプター・インフルエンサーと称される方々にはもう一度考え直していただきたい。
あなたがたはそんな未来を望んだのですか?


──「自分のパソコン」を手に入れ、電話回線からネットにつながってから、15年と数日目に記す


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2011.12.22

自炊代行訴訟を嗤うひとたちに思うこと

盗人猛々しい、と書いたりしたら怒られるんですかね。


『時代遅れだ』

それはまぁあるかもしれない。
だけど。

『さっさとDRM(著作権保護機能)つけた電子書籍作れや』

へぇー!
どの指がそんな文章タイピングできるんですか???

あなたがた、過去に「DRMつきで出てきた音楽ソフトやデジタル放送」をただの一度たりとも悪罵しなかったとでも?その指で。

DRMつけてきたらその不便さに呪詛吐くんじゃないんですか?
自由に複製させろ、とまたわめき散らすんじゃないんですか?

その先にあるのは何?

だれかの故意であれ過失であれ、その電子書籍が、あるいは"自炊"したファイルが、ネットに出てくることを織り込み済みなんじゃないの?
"ネットに落ちてるものを拾う"時代が来ることを期待していないと言い切れるの?

……盗人猛々しい、と書いたら邪推が過ぎますかね。


記者会見では背表紙を断裁されることへの感情論が取り上げられる結果になったようですけれども、
自前であれ代行であれ、「無劣化で無限に複製可能なデジタルデータ化されること」への恐怖感、というのは全く正当だと思うのです。
ネットに流れ出てしまったらもうそこで食い上げなのですから。


何度書いても誰も答えてくれないのでまた書くのですが:
『「○○(=歌手または演奏者)のファンなんです」と公言しながら、(ほぼまちがいなく)著作権侵害でアップされたそのアーティストの動画サムネイルを嬉々としてブログなんかに貼り付ける』というよくある行為、あれはいったいどういう心情なんですか??

あんたの好きな○○の著作権が侵害されてることには何も思わんのか。
それを貼り付けて侵害に手を貸すというのはどういう神経か。


これからは本についても同じことが起こるのは確実でしょう。

「感動したんです!ぜひ読んでください!」とか言って"共有"しようとする連中がやまほど出てくるのは間違いないわけです。

音楽なら、一応は「ストリーム再生されるPV」と「買えるmp3ファイル」が別物ですが、……

過去にも未来にも「断じて脱法アップされたネット動画は見ない」と言い切れる人だけにしか、「(書籍の)デジタルデータ化への恐怖感」を嗤う資格はないと思うのですが。


でもまぁ、「きちっとしたDRMが整備されたうえでの電子書籍化」ならメリットは多大かもしれません。

"ポケットの中に何千曲"を自慢する馬鹿と同じように、(時間的に)絶対に聴けもしない/読めもしないデータでも、ちょっと煽られれば争うように"ポチって"くれるでしょうから(笑)。



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2011.12.16

帰宅途中にふとコンビニに寄るとなにかふんいきが違う。
ふと上を見ると、……

店内照明が全部LEDになってた!
実店舗で使っているの初めて見たよ。

……おかねのあるところはちがいますね(苦笑)


頑張ってはいるんだろうけど、いきなり違和感感じたくらいで、やはり蛍光灯とは違うんですね。
もともと蛍光灯に比べて青暗い感じはあるけど、棚に向けて光が向くようにかなり傾けて配置しているせいもあるのか、通路は体感2割くらい暗い。まぁ節電アピールには却って好都合、という戦術なのかどうかまでは存じませんが。

で、やはり見え方が違ってくるわけで、
いままでの蛍光灯の下では色映えしたのに、LEDの下ではどうもうまそうに見えない、なんて事例はこれからやまほど出てくるのでしょうねぇ。

関係各方面におかれましては当分の間「蛍光灯映え」「LED映え」の両にらみで考えないといけなくなりそうで大変でしょうね(あるいはとっくの前に始まっているのか)、なんてことを考えた帰り道でした。


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2011.12.03

ココログ8周年─長く続けるということは、さみしさを貯めてゆく、ということ。

ココログは8周年を迎えました。
ことしもトップにはそれらしき表示がありませんが……中の人たちはあんまり周年に興味がないのか、はたまた異動などで開始当初のスタッフはもう居られないのか。


そしてこのブログも8周年。

今年になって急減したエントリ数&アクセス数ではございますが、なんとか続いております。
……周年ごとの振り返りはなぜかいつも暗いトーンなのですが(苦笑)今年もまた例外ではなく。


ぶつぶつ更新 - S嬢 はてな:

そんなこんなで改めて自分のネット利用を眺めたりして思うこと。最近RSSリーダーがつまんない。ものの見事に女性ブロガーがごそっとみんな更新しなくなった。はてなブックマークや個人ニュースサイトをつらつら眺めにいっても、情報系やなんとか論とかばっかりで、なんつーか小粋な生活ブログみたいなのがホントに見られなくなったと思う。リーダーに入れなくてもあんなにいっぱいあったのに、ってのがいくつもあって。

そりゃそうでしょうよ、と思うのです。

情熱なんて、何年も続くもんじゃないです。
生活環境の変化もあれば、体調の変化もあれば、……もしかしたら生死もあれば。
ましてや、圧倒的多数にとって、
始めるにあたって『ブログをしてみたい』以上の目的なんてないでしょうから。

まぁ、でも、さみしいですよねぇ。
こちらが(いくぶんは減ったといえど)情熱を保ち続けているときに、伴走してきた(と思っていた)相手方が醒めていってしまう、というのは。

ほんとうに新規参入が減った(ように思える)いま、続けている側にとって、
長く続けるということは、さみしさを貯めてゆくということ、なんだなぁ、と思っています。
……安っぽい失恋ソングみたいですが(笑)。


それでも、なぜか、わたし(たち)は続けているのですが。


ブログを七年書いてみて分かったこと: 不倒城:

言葉にしなくては思いが伝わらず、しかもその言葉がなかなか伝わらないのであれば、言葉に言葉を重ねるしかない。
ボールをどう受け取るかは、受け取る人の自由。それでいい。それでいいと、最近思えるようになった。
となれば、受け取って欲しいボールを山ほど投げ、下手な鉄砲を撃ち続けることが私のするべきことだ、というのが、7年書いてきての私の結論である。

同意なんです。

ブログ=繰り言2.0(2006.07)
「伝わらない」ことを実感するために、ネットに挑むのもいいかも。(2010.03)

でも、伝わらないそのさみしさに、
飽きずに、折れずに、それを年の単位で続けていられる、というのも、なかなか奇特なんですよねぇ、と、周囲を見ていて思います。
ましてや、ブログなんてところで、
伝わらない言葉を繰り返してまで、わたし(たち)はいったい何を伝えたいんだろうか?と思うと、ね……。
ほかのひとはどうだか知りませんが、アクセス減の現実の中で。

(まぁ、今は『実名・真顔の議論・リアル連携』勢力とたたかっていかなきゃならん、と思ってはいますが)


それでも、なぜか、わたし(たち)は繰り返し続けているのですが。
そなたの画面に映りしは、足抜け叶わぬ我が姿(2006.05)


もとよりわたしは使ったことはありませんが、今年は人気のあったブログパーツがいくつか、サービス終了のときを迎えました。

たぶん「ココログの10年」は迎えられる気がしますが、
「いまから10年」は、たぶん"無い"と思っています。

……その時を迎えるまでは、どうかよろしくお願いします。

そして、"立ち並ぶ墓標のひとつ"の側に並んだとき、
さみしく思っていただける誰かが居てくれますように。

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