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2012.04.23

「デマッターでいいのか!」って?…答えはYesだ。(Twitterと過ごした4年)

いいかげん諦めろよ、おまえら。

いつまで「正しく教導できる」なんて夢見てるわけ??
ましてや、意志を持ってヘンテコな言説を流す奴らに。

……もちろん、触法事案はダメですよ。
脅迫も名誉棄損も侮辱も、リッパな刑法犯ですぜ、旦那。


「デマッター」「馬鹿発見器」という蔑称が定着して相当の時が過ぎました。
『Twitter事件簿』というにはあまりにも多い事案が生まれました。

(あいつらを)なんとかしろ、という声は高まる一方ですが。

……なんともなるわけがないでしょう。
犯罪告白はともかく、デマといわれるものの多くは(少なくともその発信源は)、それなりの意志を持ってツイートされたものじゃないんですか。
誰がどうやって「正しく教導」できる、というのですか?

常々「発想を変えろ」って言ってるでしょう。

むしろ、「真顔を排除」したらええやん。(2011.06)

具体名を出して悪いけど。
『東スポ』や『ゲンダイ』の見出しを(電車の中なんかで見て)真に受けちゃって騒ぐひとはどうしたって一定数出ますけれども、
だからといって「なんとかしろ」だの「リテラシー向上が望まれる」だの言うの?
そんなの真顔で言ったとしたら、そっちの方が嗤われるでしょうが。

同じように考えればいい、それだけの話なんですよ。

そこを見るすべてのひとが、そこの信頼性を"タブロイド紙程度のもの"と心得る、そうすることでしか、(意志を持って為された)デマを無力化する方法はありません。
「デマッター」でいいんですよ。……正確にいえば、よくはないけど、今更どうしようもないんだから。
(繰り返すけど、触法事案はダメよ!)

だから、
"フツーの人"にとっては、もう、バカで暇な部分の発露(『バカと暇人』じゃないよ!)にしか使えないし、
"公的機関の中の人"がこんなところで発信することで自身の信頼を汚す必要はないことに早く、一刻も早く気付くべきだし、

(ほかのソーシャルメディア含めて)こんな代物を選挙活動に使うなんてことは、断じてあってはならないんですよ。

ブログやTwitterを「選挙運動」に使うことには、明確に反対します。(2010.04)
夢想への反論(2011.08)


念の為申しておきますが、わたし自身のタイムラインはデマRTなども飛んでくることのない、非常に平和なものにございますので、誤解なきよう。
(清く正しく美しく、かつ楽しい、かどうかについては、微妙だけどね(暴言))


──Twitterを始めて4年目の日に記す

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2012.04.17

競馬は常に美しい……のか?

公営ギャンブルを俗に三競オート(競馬・競輪・競艇・オートレース)と申しますが、中央/地方/ばんえい競馬はそれぞれの持つ"空気"が全然違いますので、「五競オート」と表現した方がいいんじゃないかと個人的に考えているところでありますが、

さて。

従来の一般マスコミにおいてもまたネット上の個人においても、競馬──とくに中央競馬──に対する扱いが良すぎる、あまりにも美しすぎるような気がして仕方がないのでございます。

それぞれの馬の、あるいは騎手の物語、そして想いというもの、
それを理解できないわけではないのですが。

それがギャンブル、賭けの対象なんですよ、ということがキレイに、あまりにも綺麗に拭い去られているような気がするのです。
なぜそんなにも一様に扱いが美しいのでございましょうか?


法的には同列には扱えないと申しましても、実質的には「ギャンブルのもう片方の雄」といえるパチンコの、とくにネット上での扱いとの、そのあまりの差は一体……。
まぁ、ネット上でのパチンコ叩きは、いわゆる「特定アジアへのヘイト」が乗っかっておりますゆえ、その点でも別格というか別問題なのかもしれませんけれども。


ギャンブルであり、酒タバコ等と同じく本質的には「のめり込んではいけない対象」であるはずにもかかわらず、「アツく語る」ことがこんなにも受け入れられている、ということが、どうにも不思議なのでございます。


なおフォローしておきますと、
当方としても首記「五競オート」すべてにおいてライブ観戦経験があるのみならず、
とくに中央競馬においては開催全10競馬場を完訪した程度には興味を持っておりますし、

カップルと家族連れとを問わず、ギャンブル抜きで「競馬場にピクニック」に行くのは、とくにこれからの季節、なかなかのお勧めだと思ってはいるのでございますが。

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2012.04.14

卒業のない熱病の果てに

その昔、子供になにか言いつけたら「先生はこう言ってたもん!」と反抗されてムカついた、という経験をしなかった親はいないんじゃないかと思いますが──でも"先生の威厳"が落ちたいまはどうなんでしょうね?──、
振り返ればむしろほほえましい、一時の熱病みたいなものでございますが。

こちらは大のオトナのお話でございます。

国の発表を信じるな!という人が、見ず知らずの人の一ツイートを頭から信じ込んでいるのは何故だろう: 不倒城:

回りまわってきた見ず知らずの人の情報を頭から信じこんで「やはり国の発表は嘘だった!!」とか脊髄反射するのは、若干純真過ぎるのではないか、と思ったりもするわけである。

んー、見かける範囲ではその情報の「一つ一つは」そんなに信じてはいないのではないか、と感じますけれども。
時流のネタに乗っかれ!というノリ。

のちに誤報が判明したとしても(圧倒的多数は)訂正も反省もしない、
「むしろ全力で釣られろ」
「ネタをネタと(略」
というフレーズを好んで使う、というところから見ても。

どれほど深刻な話であっても、どこかそれを楽しんでいるような気がするんですよね。
大予言2011、みたいな。(2011.04)


ただ、これって、卒業のない熱病、なんですよね……

一つ一つはネタとして扱っていても、それを繰り返すうち、信じる、というよりむしろ「叩く対象に対しての憎悪」を際限なく深めていっているような気がします。

政府・与党に限らず、特亜/パチ/煙草/史観/公務員/日教組/生活保護/...あと何があったっけ、ともかくそんな対象に対しての。

でもあくまで「一つ一つはネタ扱い」だから、諭したところで「ネタにマジレスしやがって」とブロックされるのが関の山だったりして。

しんどいねぇ...


まぁ、ネット全体としては、とうの昔に諦めているんですけどね。
そこを見る全員がタブロイド紙/ゴシップ誌程度の情報源だという認識をさっさと持てよ、という意味で、
「"デマッター"でいいのか?」という問いには「イエス」と答えるし、
ひろくオープンな空間がどうしたって政治や社会に関してはヘイトスピーチとデマにまみれることは確定だし
(だから「ソーシャルメディアで選挙運動解禁」なんて全力で反対するんですよ!!)。


でもね、
かつてささやかなりとも関わりをもった相手さんが、そういった憎悪とデマの拡散屋に堕ちてゆくのは、ただ黙って見ているには忍びなくて。

そこで問うのですが。
徒労だし、しょせんネットつながりだし、ただしずかにフェードアウトするのがいいのか、
やっぱり「手の届く範囲」だけでも矯正(個別撃破、ともいう(笑))することに多少の意味はあるのか。
みなさんは、どう思われますか?


ここ1年くらいの、ひそかな悩みごとだったりします。

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