卒業のない熱病の果てに
その昔、子供になにか言いつけたら「先生はこう言ってたもん!」と反抗されてムカついた、という経験をしなかった親はいないんじゃないかと思いますが──でも"先生の威厳"が落ちたいまはどうなんでしょうね?──、
振り返ればむしろほほえましい、一時の熱病みたいなものでございますが。
こちらは大のオトナのお話でございます。
国の発表を信じるな!という人が、見ず知らずの人の一ツイートを頭から信じ込んでいるのは何故だろう: 不倒城:
回りまわってきた見ず知らずの人の情報を頭から信じこんで「やはり国の発表は嘘だった!!」とか脊髄反射するのは、若干純真過ぎるのではないか、と思ったりもするわけである。
んー、見かける範囲ではその情報の「一つ一つは」そんなに信じてはいないのではないか、と感じますけれども。
時流のネタに乗っかれ!というノリ。
のちに誤報が判明したとしても(圧倒的多数は)訂正も反省もしない、
「むしろ全力で釣られろ」
「ネタをネタと(略」
というフレーズを好んで使う、というところから見ても。
どれほど深刻な話であっても、どこかそれを楽しんでいるような気がするんですよね。
大予言2011、みたいな。(2011.04)
ただ、これって、卒業のない熱病、なんですよね……
一つ一つはネタとして扱っていても、それを繰り返すうち、信じる、というよりむしろ「叩く対象に対しての憎悪」を際限なく深めていっているような気がします。
政府・与党に限らず、特亜/パチ/煙草/史観/公務員/日教組/生活保護/...あと何があったっけ、ともかくそんな対象に対しての。
でもあくまで「一つ一つはネタ扱い」だから、諭したところで「ネタにマジレスしやがって」とブロックされるのが関の山だったりして。
しんどいねぇ...
まぁ、ネット全体としては、とうの昔に諦めているんですけどね。
そこを見る全員がタブロイド紙/ゴシップ誌程度の情報源だという認識をさっさと持てよ、という意味で、
「"デマッター"でいいのか?」という問いには「イエス」と答えるし、
ひろくオープンな空間がどうしたって政治や社会に関してはヘイトスピーチとデマにまみれることは確定だし
(だから「ソーシャルメディアで選挙運動解禁」なんて全力で反対するんですよ!!)。
でもね、
かつてささやかなりとも関わりをもった相手さんが、そういった憎悪とデマの拡散屋に堕ちてゆくのは、ただ黙って見ているには忍びなくて。
そこで問うのですが。
徒労だし、しょせんネットつながりだし、ただしずかにフェードアウトするのがいいのか、
やっぱり「手の届く範囲」だけでも矯正(個別撃破、ともいう(笑))することに多少の意味はあるのか。
みなさんは、どう思われますか?
ここ1年くらいの、ひそかな悩みごとだったりします。
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