『バカッター』よりも恐ろしいこと(Twitterで過ごした6年)
周年とは何の関係もないかもしれませんけれども……
もちろん、ブログブームの昔から、どこに行きました、なに食べました、と逐一写真を上げるひとたちの存在は当たり前にありました。
いまも、不用意に自宅あるいはその周辺の写真を公開することへの苦言はたまに見られますが。
Twitterの時代になって、まぁその中でも変遷はあり、現在のわたしのTLでは『I'm at ○○○』と『○○○にタッチ!』が優勢ですが、総称してジオタグ(giotag)と呼ばれるサービスをカジュアルに使うひとが激増しました。
なぁ、あんたがた。
何がしたいの?襲われたいの?
いわゆる『バカッター』、犯罪告白系のそれを「公開の場でそんなこと書く愚か者」と嗤うそのひとが、片方ではせっせとその指でリアルタイムの位置情報を発信し続けている、というのは、どう考えても矛盾やろ、違うか?
『事件』が起こらないまま、ずーっとそれが蓄積されていく、っちゅう点で、『バカッター』よりよっぽど恐ろしいことやと、なんで気づかへんの?
それを、昨日今日ネット始めた──ということは、自分のツレとのみしかつながることを知らない──連中はいざ知らず、わたしよりもネット上のキャリアがはるかに長く、かつはるかに濃いひとびとでさえうれしそうに使っている、というのがどうにも理解に苦しむところ。
写真上げるならExifの日付とGPS情報は消しとけ、とか、
旅の感想書くなら時系列シャッフルしとけよ、とか、
いまの時代に「公開の場でなにかを書く」にあたっての危機管理の基本の基本じゃないんですか。
昨日今日のひとはともかく、ベテランならベテランの矜持として、そこらへんの意識を持っといてほしいんやけどなぁ。
なんでもかんでも座標つき、って流れ、考え直してくれへんかなぁ?
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コメント
黙々と読みふけるのが息苦しくなってきましたので・・・。
エントリに対するコメントでないのですが、少しコメントしてもよいですか・・・?
1ヶ月ぐらいで読破できるかなと思っていましたが、とてもとても・・・。10年間の蓄積の重みと厚みに驚いています。
抑制の効いた語り口と、ことばのセンスが光るこちらのブログを読むのは楽しいです。10年も前の記事でも色褪せてなどいなかったし・・・。
(でも、リアルタイムで読みたかった!です)
ですが私は、ネットコミュニケーションの世界の入り口で、立ちすくんでいます。
「ネットの縁」の儚さに気づかされ、ROMに戻るのか、先に進むのか、その選択を突きつけられているような気がします。
本当は進みたいのですけれどもね・・・。
初めておそるおそるコメントを付けたとき、自分の想いを文章にすることに、苦しさと共にひそやかな喜びも覚えたし、
そのコメントに反応を返していただけたときの感激を今も憶えていますし、
本当は進みたいのです。
でも、「ネットの縁」が現実世界よりずっと脆くていずれは喪失感を味わうということに気づいて、私は早くも興醒めしそう、というか虚無感にとらわれて、立ちすくんでいます。
ブログされる方たちは、かつて交流しあったり愛読したブログの閉鎖などに立ち会いつつもブログし続ける、その原動力はなんなのだろう?そう考えたときに、やはり「書く」ことを第一義にされているからなのだろうなぁと。その点、「ブログせずコメントだけ付けたい」などというスタンスでは、虚しさつのって辛くなるのだろうなあ・・・などと、自身の立ち位置についてぼんやり考えを巡らせたりしながら、読ませていただいています。読むことそれ自体は掛け値なしに楽しいです。
投稿: mint tea | 2014.04.23 22:04
いかがでしたか。
本線として書いてきたことについては、ネットコミュニケーションの経験(と、好ましくはそれに対する一家言)がなかったら分からないだろうなぁ、というかなり歪んだ自負(笑)を持っていたりするのですが。
5年以上前であればブログするべしと力説していたでしょうが、・・・
既読スルーとやらで刃傷沙汰になる世界もあるんだそうですが(苦笑)、コメントするにしろ、ブログするにしろ、あまり強い想いを持っちゃいけません。
書けばいつも反応がもらえる、なんて世界ではないことだけは確かです。
いつか書きましたが、相手は自分じゃありません。
書いた「想いの強さ」までが伝わるなんて思っちゃいけません。
まぁ、なんにせよ、本稿のごとく保安を忘れずにね!
投稿: Tristar@管理人 | 2014.04.24 21:14
>本線として書いてきたことについては、ネットコミュニケーションの経験(中略)がなかったら分からないだろうなぁ
・・・まぁ、そのとおりですね(苦笑)
「読者として不適格」の烙印を押されたようで凹みますが。
ネットコミュニケーションについて書かれたこちらのブログをネットコミュニケーションほぼ未経験の私がなんで熟読しているの?
とは、自分でもツッコミを入れながら読んでいます。
>相手は自分じゃありません
『我とひとしき人しなければ』 ですね。
投稿: mint tea | 2014.04.25 00:28
最後まで拝読しました。
私のような者の読むブログではないと途中で気づきましたが、文章(文体)に惹かれ、文章から伝わる感情や思考に引き込まれ、最後まで読んでしまいました^^;
「墓標」と言う表現はさみしすぎるので、「中の人」が "もうひとつの世界" を生きた証、あるいは「自伝」、のように感じながら読みました。
こちらとそのリンク先/元を行きつ戻りつ読ませていただいて、鋭い文や温か味のある文や美しい文章で溢れるネットの世界を、初めて知りました。
「書き言葉」を手放さなかった人たちの世界・・・・・・。心を揺さぶられました。
(私自身は、「書き言葉」の世界に没頭するほどに対面での会話が不自由になるようで、はるか昔の子供時代に手放してしまいましたが・・・。)
上っ面を撫でるような読みかたになってしまったところは多々あったと思います。
理解したように思えても、実体験をベースにした理解や反応となると、したいと思ってもできようがなかったですし。
その一方で、自分の身に引きつけて読めたり、深く共感して読んだものもまたそれなりに沢山あった、と思っています。
それでは、特に心に残ったエントリから、いくつかを:
「ただ、画面に映る文字のみで。」
「我とひとしきひとしなければ~『覚悟』ふたたび」
「そのやりとりは、何のため?」
「唯春の夜の夢の如し」
「世界観は広がります。だからこそ、固まるんでしょう?」
「あほやなぁ、って思うでしょ?」
「Facebookは滅びるべきである」
「つまり、『普段から』真顔で向き合うてたらアカン、そういうこと」
「諸君 私は娯楽が大好きだ」
・・・・・・ホントは「理想の読者」になりたかったのですよ?
投稿: mint tea | 2014.06.13 01:09
・・・ご苦労さまです(笑)
リンク先のいくつかも(残っていれば)読み応えがあるものですから、
またそこからあたらしい発見があるかもしれません。
ネットの中の文字列は永遠ではないですが、
でも根を詰めすぎずに。
稼ぎに使っていない限り絶対に『余暇の一部』なのですから、
「本当の生活」に(悪い)影響を与えることのないように、
ネットと付き合っていっていただければと思います。
投稿: Tristar@管理人 | 2014.06.15 21:38